406 安倍仲麿あべのなかまろ 天の原 振り放けふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 唐土もろこしで詠んだ歌、この歌は、昔、仲麿を唐土もろこしに物習ものならはしに遣わして、たくさんの年を経て帰ってくることができずにいるところ、この国(日本)よりまた使いがたどり着いたので、一緒に(日本に)帰って来ようとして出発して、明州めいしうというところの海辺にて彼の国(唐土)の人が餞別をした。夜になって月がとても趣深く射し込んだのを見て詠んだと語り伝わっている 407 小野篁朝臣おののたかむらのあそん わたの原 八十島やそしまかけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人あまの釣舟 隠岐国おきのくにに流されたときに舟に乗って出発するので、京にいる人のもとに遣わした歌 408 詠み人知らず みやこ出でていでて きょうみかの原 いづみ川 川風かはかぜ寒し 衣かせ山ころもかせやま 題知らず 409 詠み人知らず、一説に、柿本人麻呂 ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れしまがくれ行くゆく 舟をしぞ思ふ 題知らず、この歌は、ある人が言うには、柿本人麻呂の歌である 410 在原業平朝臣ありはらのなりひらのあそん 唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ 東国の方へ、友とする人をひとりふたり誘って行った。三河国八橋というところに至ったところ、その川のほとりにかきつばたがたいそう風雅に咲いていたのを見て、木の陰に降りて座り、かきつばたという五文字を句の頭に置いて旅の心を詠もうとして詠んだ歌 411 在原業平朝臣ありはらのなりひらのあそん 名にし負はばおはば いざ言問はむこととはむ みやこどり 我が思ふ人は ありやなしやと 武蔵国むさしのくにと下総国しもつふさのくにとの間にある隅田川のほとりに至って、みやこがたいへん恋しく思えたので、しばらく川のほとりに降りて座り、(みやこに)思いをはせると限りなく遠くにも来たのかとつらくなり、座り眺めていたところ、渡守が「早く船に乗ってください、日が暮れてしまいます」と言うので、舟に乗って渡ろうとしたが、全員つらくて、京に愛する人がいないというわけでもなく……そんな折に白くて口嘴くちばしと脚が赤い鳥が川の辺りで遊んでいた。京には見ることのできない鳥であったので全員がわからず、渡守に「これはなにどりですか」と聞いたところ、「これはみやこどり」と言ったのを聞いて詠んだ歌 412 詠み人知らず 北へ行く 雁ぞ鳴くなる 連れて来し 数は足らでぞ 帰るかへるべらなる 413 乙おと 山隠す 春の霞ぞ 恨めしき いづれみやこの 境さかひなるらむ 東国から上京する途中で詠んだ歌 414 凡河内躬恒おほしかふちのみつね 消え果つる ときしなければ 越路こしぢなる 白山しらやまの名は 雪にぞありける 題知らず 415 紀貫之 糸に縒る ものならなくに 別かれ路ぢの 心細くも 思ほゆるかな 東国へ下向したときに途中で詠んだ歌 416 凡河内躬恒おほしかふちのみつね 夜を寒みさむみ 置く初霜を 払ひつつ 草の枕に 数多あまた旅寝ぬ 甲斐国かひのくにへ下向する途中で詠んだ歌 417 藤原兼輔ふぢはらのかねすけ 夕月夜ゆふづくよ おぼつかなきを玉匣たまくしげ 二見浦ふたみのうらは 曙でこそ見め 但馬国たじまのくにの温泉に行った際、二見浦ふたみのうらというところに泊まって、夕方の乾飯かれいひをいただいたとき、一緒にいた人人が歌を詠んだ、そして詠んだ歌 418 在原業平朝臣ありはらのなりひらのあそん 狩り暮らし 織女たなばたつめに 宿借らむ 天あまの川原かはらに 我は来にけり 惟喬親王これたかのみこのお供に狩りに行ったとき、天の川あまのがはというところの川のほとりで降りて座り、お酒などの飲んで、そして、親王みこが仰るには「『狩りをして天の川原かはらに至る』という心を詠んで、杯に注ぎなさい」と仰ったので詠んだ歌 419 紀有常きのありつね 一年ひととせに 一度ひとたび来ます 君待てば 宿貸す人も あらぞとぞ思ふ 親王みこはこの歌(在原業平朝臣に命じて詠ませた、前項418の歌)を返す返す読みつつ、でも返歌を詠めなかったので、ともに控えていた(紀有常)が詠んだ歌 420 菅原朝臣道真すがはらのあそんみちざね このたびは 幣ぬさもとりあへず 手向山たむけやま 紅葉もみぢの錦 神の随にまにまに 朱雀院が奈良の行幸したときに、手向山で詠んだ歌 421 素性法師そせいほうし 手向けたむけには 綴つづりの袖も 切るべきに 紅葉もみぢに飽ける 神や返さむかへさむ 朱雀院が奈良の行幸したときに、手向山で詠んだ歌